入賞作品

宵越しの金は持たないおふたりの使いっぷりは見事です(笑)。そして、大ピンチの時、どのように切り抜けるか柔軟な対応が問われる場面でのご主人の機転はそれ以上にスゴイ! ぜひまた、沖縄に遊びにいってください。

「17年前の予言」

M・Aさん(44才、宮城県在住)

私たちが結婚したのは今から17年前です。新婚旅行先に選んだのは、沖縄本島・石 垣島・西表島。南の島巡りを満喫しました。

遠距離恋愛の末にゴールインしましたから、旅行先での私たちはすっかりマリッジハ イ。

「ちんすこう美味しそう。お土産に大人買い!」

「海ヘビのお刺身だって。珍しいね、食べてみよう!」

異国ムードに酔いしれ、財布の口が緩んでしまいました。

山あり谷ありで賞
(写真はイメージです)

一気に醒めたのは、最終目的地の西表島。気がつくと、一万円札が数枚しか入ってなかったのです。

青ざめた私は、恐る恐る夫に打ち明けました。

「ごめん。ここではあんまりお金使えない・・・・・・」

今までニコニコしていた夫が、驚愕に顔を引きつらせました。

「カードとか無いの? ATMで引き出せば?」

けれど、旅先で紛失したら大変と、自宅にカード類をすべて置いてきてしまったので す。あまりにも世間知らずな新妻でした。

夫はむっつりと黙り込んでいましたが、最終決断を下しました。

「お袋にSOSを出そう。郵便局のカードを一枚だけ持ってるから」

宵越しの金は持たないタイプの夫の口座にも、数千円しか入っていなかったのです。

お義母さんはかなり驚いたようでしたが、

「そういうこともあるわよ。ホホホ」

快く送金してくれました。

無事に引き出せたときの安堵感と言ったら! 故郷のお義母さんに手を合わせて感謝 しました。

「出だしからこの調子じゃ、先が思いやられるな」

ぽつりと呟いた夫のひと言は今でも忘れられません。

暗示にかかったのか、それとも予言だったのか。山あり谷ありの17年でした。

その他の応募作品

不手際や思わぬトラブルにみまわれて、ちょっとホロ苦い新婚旅行になってしまったというエピソードをご紹介します。

新婚旅行

矢口慎三さん(78才、長野県在住)

わたしの新婚旅行は、昭和四十年三月二十六日であった。

長野県上田市で式を挙げた後、三時頃の電車で東京に向かった。旅行先は紀伊半島で、二泊三日を予定していた。

東京へ帰る兄弟たち四人や、その家族も同じ車両に乗っていた。わたしたちは座り、兄弟たちは立っていた。途中で今晩の宿の話になり、誰も予約をしていないことがわかった。わたしは兄弟たちに頼んだつもりでいたし、兄弟たちは頼まれていなかったのか忘れてしまったのか。

車内から急いで手配してもらい、何とか宿は取れた。東京駅舎の二階の宿だった。宿は不夜城のように明るく、電車の音が一晩中響いていて落つけなかった。後日妻は「何で夫婦の契りがなかったのか不思議に思った」と言ったが、そんな雰囲気ではなかった。

次の日の新幹線の予約も取れていない。「すいている電車見つけて乗っていけばいいは」という兄弟たちのことばに慰められて、新幹線のフォームに出た。
新幹線は前年開通したばかりで、どの便も満席だった。二ー三便やり過ごしてから「座れなくてもいいや」と思い乗り込んだ。案の定座れない。

名古屋まで、デッキや通路に立ちっぱなしで疲れていやになった。大阪まで行く予定であったが、途中の名古屋で乗り換えて近鉄線に乗った。座ることはできたが、夕闇は迫ってくるし、ほっとしてる余裕はなかった。

宿に着いたら六時を過ぎていて、外はうす暗かった。宿の人達が新婚旅行ということなので、心配して待ってくれていた。今でも忘れられない思い出である。

新婚旅行の苦い思い出

ペンネーム 蛙屋無二さん(68歳、福岡県在住)

私達の結婚披露宴の会場に、ぞろぞろと男女の一団が入って来た。半年前、私が中津市から北九州市の八幡に転勤するまで所属していた合唱団のメンバーである。お祝に歌いに来てくれたのである。会場では、思わぬハプニングで感動の声が上がった。私もとてもうれしかった。

今思えば、自分は結婚式に関してはほとんど何もしなかった。八幡での新居(社宅)の準備以外では、式場と新婚旅行の予約をした程度であった。それよりも、転勤後入団した合唱団が参加する全国大会が式の二日前に名古屋であり、大会を終えた私が中津に着いたのは、式の前日という慌ただしさだった。

披露宴を終えた私と新妻はその日の夜を博多に泊まり、翌朝飛行機で鹿児島に向かった。霧島神宮辺りを巡って泊まり、次の日、長崎鼻辺りを巡って指宿泊まりまではまあまあであった。

しかし、最終日、山川港から大隅半島へ錦江湾をフェリーで渡る辺りから雲行きがおかしくなってきた。なんと二人共船酔いを始めたのである。何とか我慢をしてフェリーを降りたが、問題は、そこから佐多岬の先端まで行くのは乗合バスしかない。しかし、どうしようもないので二人青白い顔をしてバスに乗った。観光どころではなかったが何とか乗り切った。

面白くないことが相次いだ。帰宅してから現像に出した、新婚旅行中の写真のほとんどがピンボケだったのだ。愛想のいいタクシー運転手に任せてシャッターを切って貰ったのだが、そのほとんどが焦点無視であった。

更に、追い打ちがかかった。結婚式の写真は、式場の専属ではなく馴染みの写真屋に頼んでいた。いくらかでも安上がりにとケチったのが間違いであった。出来上がりは、これが結婚写真?というレベルの出来だった。私も残念であり、妻に申し訳ない気持ちで一杯であったが、妻の落胆は大きかった。その後、二つの写真は押入れ深くしまわれて、懐かしさに眺められることはなくなった。

私のハネムーン

奥田富子さん(72才、宝塚市在住)

私が結婚したのは四十数年前。当時、飛行機は珍しかった。伊丹から東京(羽田)まで飛んだ。宿泊したのは、箱根でした。私は結婚がどんなものか知らなかった。夫も不器用だった。二人共どうしていいかわからなかった。何もしないで一夜が過ぎた。次の日も何事も起らなかった。ノーセックスのハネムーンでした。

新居に帰り、やっと結婚できた。幼稚な夫婦でした。近所の人が「兄妹みたい」と言った。私は料理が下手で、何を作っていいかわからなかった。毎日のようにとり肉を焼き、サラダを作った。夫は私の下手な料理に、不満を言わなかった。この間、東京やニューヨーに転勤があり、私は転勤を楽しんだ。



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