入賞作品

なんて楽観的な?ご主人。予定をてんこ盛りにするところが私の旦那によく似ている……。九州から仙台までよく一人で運転し通しましたね~。ご主人、エライ! それに付き合った奥様もエライです。また、おふたりで楽しい旅を! 今度は乗り遅れないことを祈ります。

「長い長い家路」

北谷 さとみさん(52才、宮城県在住)

車を走らせ、新婚旅行で九州を旅したのは、ちょうど今から二十年前の梅雨に入る少し前のことである。

無事旅行を終えて仙台へ帰ろうと、フェリーに乗るため長崎を出発し小倉へと向かった。ところが道に迷ってしまい、そのフェリーに乗り遅れてしまったのである。私と夫は思わず顔を見合わせた(どうするの?)(どうするって……)-しばらくの沈黙のあと、私たちは腹をくっくた。(よお~し、仙台まで走り切ってみせる!)、と勢い込んだものの仙台が異国の地に思えた。

私は車を運転することができない。だから今まで一人で運転しどうしで、夫はこの先仙台まで運転しきれるのだろうかと心配になった。それに財布が軽くなってきた。高速自動車道を使うのはよそう、などと思案していた。

瀬戸大橋
(写真はイメージです)

そんな私の心配をよそに、夫が突然「おい、瀬戸大橋渡るぞ!せっかくだからなあ~」と言い出したのだ。……夫はいつもこうなのだ。もうフェリーに乗り遅れてしまったことなどすっかり忘れている。帰るころになると、夫はせっかくだからと後先考えずに、予定をてんこ盛りにするのだ。夫のいうことも確かに一理あると思うが、あとからやってくる”つけ”があまりにも大きすぎるのだ。

とにかく私たちは遅れを取り戻そうと、車の中で眠りベンチで体を休め、帰りを急いだ。

私たちはへとへとになりながらも、四日かけてやっと仙台に戻ることができた。それでも家に着いたとき、私は思わず万歳三唱をしたのである。夫は笑っていたが、よくぞ長崎から仙台まで戻ってきたという達成感と、長い間留守にしていた我家が妙にいとおしく思えたから、私にそうさせたのだと思う。

ときどきあの新婚旅行のことを思い出す。不思議なことに、浮かんでくる情景がどれも印象的で、まったく色あせていないのである。

その他の応募作品

旅先での大ゲンカや急病など、いろいろなアクシデントがふたりを襲います。それもまた時が過ぎてみれば楽しい思い出に変わる?そんなエピソードをご紹介します。

神前で誓ったのに……

山根茂雄さん(58歳、島根県在住)

神前でいつまでも仲良くします。と誓ったのに、もう喧嘩をしている。車での新婚旅行中、「お前が右と言ったから、右に行ったのに違うじゃないか。」「私は、もう一つ手前を右といったのよ。」昭和54年4月29日に島根県松江市で結婚式を挙げて、山陰路を北陸へ,金沢を通って立山経由で大阪。フェリーを小倉へ上陸して宇部へと帰りつくコースと企画したのは良いが、ご覧のとおりの車内はイライラの連続。

当時は今のようにカーナビという便利なものはなく、助手席で道路地図を手に誘導する新妻ナビと道路標識だけが頼りの運転であった。そのため、口喧嘩からイライラが最高潮に達すると、ドアを開けて「もうイイ、降りろ。」との暴言へと発展した。降ろしたのは良いが、今と違って携帯電話もなく、連絡も取りようがない。宿も決めてないので落ち合う場所も決めてない。ただ、訪れることにしていた石川県加賀温泉の「コオロギ橋」に向かった。

当時、樋口可南子主演の朝のテレビで放映されていたコオロギ橋のファンだったので、新婚旅行のコースに加えていたのが幸いした。加賀温泉へと続く道を辿って、コオロギ橋に一人たたずむ彼女を見つけたときは、ホッとするとは別に思わず口から出たのは「バカヤロー何でいなくなるゃー 心配したんだぞ。」マズイと思ったのはもう遅い。新妻の猛反撃がしばらく続いた。

今では、道を間違えたのは、ナビの指示の仕方が悪いということにすれば良い。口喧嘩もない、平和な新婚旅行だろうと推察する。

楽しさも中くらいなり

新井伸一さん(67才、埼玉県在住)

「新婚旅行は何所にしようか」が、プロポーズとして受け入れられ私達は結婚した。

旅好きの彼女は、新婚旅行用として九州だけ残してきた。彼女にグアム島ハネムーンプランを告げると小躍りして喜んだ。

羽田発の機内は、多くの新婚カップルの熱気が漂っていた。私が用便に立ち上がる際、機内サービスドリンクカップに身体が触れた。彼女目掛けて飲み残し果汁が飛び散った。彼女の純白スーツに大きな染みが出来た。

「私、貴方好みの色に染まるため、純白衣装を選んだのよ」彼女の微笑み返しにホッと息を付いた。

夕食を終えてホテルの売店に連れ立った。両替したドル紙幣入り財布が無いので慌てた。浮かれていたので財布入りバッグを忘れた。クレジットカードは未だ普及してなかった。彼女の所持金に頼る買い物を余儀無くされた。

翌日、予約バスで島巡りに出向いた。旧日本軍兵士横井氏が生き延びた洞窟がガイドされた。常夏、清流とバナナ類に救われたと語られている。

「離婚されたら、私も此の洞窟で暮らそうか」と呟いた瞬間、彼女から肘鉄砲を食らった。バスは壮大な海原が望める丘上で停車した。乗客全員の記念撮影が行われた。プリントされた写真を一見て彼女は立腹した。強烈な浜風で髪は逆立ち、丁寧な化粧も奏功せず鬼の形相で写っていたのだから無理も無い。

十分なフリータイム設定なのでホテル前の浜辺に赴いた。冷ややかな海水に浸かって間もなく、私は激しい下痢に襲われトイレも間に合わなかった。幸い、人影が疎らだったので素知らぬ振りをして海水で身を清めた。

昨晩の飲み慣れぬ海外酒の影響とは考えづらいが、旅行中の一切の禁酒を誓わされた。 帰国してホテルに直行した。愛車のドアを慌てて開けた。後部座にバッグが放置されていた。この一週間、バッグ内の財布に笑われていた様な新婚旅行を終えた。

40年前の新婚旅行

齊藤忠弘さん(76才、千葉県在住)

昭和43年6月14日指輪もしない新婚夫婦が青森へ向って旅立った。行先は奥入瀬から十和田湖方面への二人旅だが十勝沖地震の余震で徐行に徐行だったが野辺地手前で停まってしまったが今日中に着くのかねと気をもみ乍らも2時間も遅れてやっと到着した。

タクシーで浅虫温泉に辿り着いたが七階建ての宿が防波堤と共に異音を発する度び波間に浮かぶ「裸島」が波間ゞ見え隠れしてたが一泊して奥入瀬から十和田湖へのバスの旅脚腰病めるほど乗ったが遊覧船で景色眺めてたら何時(いつ)の間か傷みも消えていた。

湖畔の宿で一夜を過ごし発荷峠から秋田へ向かったが山道ばかりで田舎で待ち続けてる老いた母の姿を思い浮かべてた。夕暮れ時に秋田駅前に到着したが疲れも加わってどこでもいいやの合意で「呼び込み屋」の幟(のぼり)に付いてったら旅館が何と選挙事務所候補者の実家らしかったが一晩中賑やかで騒々しくざわついてて秋田の夜は不眠で夜が明けた。

羽越線で越後へ入り双方の故郷新潟と会津に二泊づつして祖先の墓参りに両手を合わせて新婚旅行は終了(おわ)ったが安アパートでの金欠生活が始まってあれから40年年中「金無」だが死を約束されて生まれてから74歳の誕生日を真夏に迎え様としてるがP.P.C.での生涯を了(お)え度いと思ってる昨今である。

あの日のエッフェル塔

高村亮一郎さん(53歳、福島県)

もう二十年以上も前のことになる。日本はちょうどバブルの絶頂期で社会全体に自信や活気が満ちあふれていた。私も教師の仕事を毎日エネルギュッシュにこなし、私生活も十二分に謳歌していた。そんな最中に結婚した私たちが新婚旅行先にしたのがフランスとイタリアである。

フランスはパリを中心にベルサイユなど歴史的な舞台を中心に巡り、イタリアはローマの古代の遺跡を石畳みを歩いて廻った。十一月にしては暖かいので、暑がりの私はシャツ一枚で歩いて周りから不思議がられたり、革細工の店のオーナー夫妻と親しくなって一緒に食事をしたり、ガイドにない面白い場所を教えてもらった。私も妻も歴史や芸術に興味があり、とにかく毎日二人でいろいろな所に行った。どこからこんなエネルギーが沸いてくるのかと思えるほど精力的に朝から晩まで活動したので、まるで仕事にきたような錯覚に陥るほどであった。

更にラッキーだったことは、私の元同僚がパリの日本人学校に派遣されていたこともあり、休日を利用してパリをはじめ、郊外のベルサイユ宮殿などを案内してくれたことである。苦手だったカキもこの時、一緒に楽しく食べることでその美味しさを知ることができたし、貴重なフォアグラも色々なパスタもしっかりと食べられた。食べることが好きな私たちであるが、外国の食文化にどっぷりと浸かりながら、見る物、聞く物全てに感動しながら過ごした充実の8日間であった。

しかしながら、たった一つ今でも残念だったことがある。妻の名誉の為にこれは黙っておこうと思っていたのだが、もうこの年になれば時効だろう。

実は、パリの夜景を見にエッフェル塔に行こうとホテル近くの地下鉄駅に降りた所で妻が急に腹痛を起こし、近くのトイレが使えず息も絶え絶えにやっとの思いでホテルに引き返した為、ロマンチックな夜が一瞬で下痢の思い出となってしまったことである。今もエッフェル塔を見るとあの日の下痢で苦しむ家内の苦しそうな顔を連想してしまうのだ。これはPTSDかもしれない。



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