入賞作品

ご主人から大切にされた新婚当時のこと、夫婦の絆や歴史を積み重ねてきた想いがとても伝わってきた作品でした。これからもハンサムな旦那様の思い出を大切にしてください!

「彼」

ペンネーム小坂碧さん(64才、静岡県在住)

結婚したのは、昭和47年5月だった。新婚旅行は山梨長野方面の3泊4日の旅だった。1泊目は山梨に泊まりあとの2日間は長野だった。長野の旅館は食事も寝る場所も最高に良かった。
彼と知り合ったのは、結婚相談所。4ヵ月程の交際後、私達は短期間で結婚した。だから新婚旅行も当時、お見合い結婚して一緒になった者同志のようにお互い他人行儀でぎこちなかった。山梨の旅館で食事をとってもおいしいとは思わずただ黙って食べていた。
3人兄弟の末っ子として生まれた私は父や母に甘やかされて育った。過保護で自立心がなく、そんな私だったから旅行中もしきりに、実家に帰りたいことばかり思っていた。そんな私を見て主人はきっと面白くなかったと思う。私と違い主人は子供の頃から自立心旺盛な子供として育ったからその比は比べようもない程大きかった。そんな全てが相反する者同志の結婚は最初からうまくいくはずもなく、当初から歯車の食い違いが目立ったように思う。けれど新婚旅行を経て、長い歳月を重ねるごとに、その差は次第に縮まっていった。これからの夫婦生活を送る。その前でもある新婚旅行(短かったが)その絆を深める意味でとても大事なものになっていった。
山梨、箱根、長野と移り変わりゆく風景を見ながら彼の運転する車でドライブできたことは、とても良かったと思う。その風景ととけあうように私の心もいつしか一になっていった。

長野の旅館での食事、エビやしいたけ春菊の入った寄せ鍋を囲みあの串にさし焼いたアユのおいしさ、釜飯。等をたん能した。その旅館で彼と卓球も楽しんだ。いたれり尽くせりだった、短い新婚旅行。

去年夫は65才で突然この世を去ってしまった。とても辛く悲しい出来事だったが旅行当時の古いアルバムを見ると、そこにはいつまでも変わらない若くハンサムな彼がいた。

大切な宝物で賞
(写真はイメージです)

いつも明るく陽気だった主人と出会えたこと、新婚旅行を共にし、夫婦生活をいっしょに送れたことに感謝している。
新婚旅行の思い出は私にとって生涯の大事な宝物である。

その他の応募作品

おふたりの大切な思い出をつづってくださった作品を
応募作品の中からご紹介します。

新婚旅行で見たルーブル美術館 良人は「心の太陽」

ペンネーム扇つるさん(82才、山形県在住)

新婚旅行で見たルーブル美術館の中は身動きも出来ない程で、ミロのヴーナスの前で立ちつくしてしまった。右側には太った白人の婦人が「ワンダフル ワンダフル」と大きな声をあげて指さしていたし、左側には背の高いドイツ人が早口に「ゼア ジューン」(素晴らしく美しい)と繰り返していた。

私達は 小さな体を背伸びして 本物のヴィーナスの後方を見たいとカメラを向けているのに、外人に遮られて中々シャッターを切ることが出来ず、二・四メートルの生命感みなぎるこの像の素晴らしさに圧倒されていた。

グランド・ギャラリーから横に入った所に十九世紀前半の傑作群が天井に至るまできらびやかに輝いていた。あの謎と幻想的なぼかしの妙義を生かして描いた、レオナルド・ダビンチの「モナ・リザ」の顔の左半分は喜びに似た活気を示し、右半分は沈静な表現だといわれているのを思い出し、私達は時間が経つのを忘れて眺め入った。見つめれば見つめるほど、髪の毛の縮れた巻き毛の一本一本がきらめくように、ふるえるように浮き出して描かれ、まつ毛や濡れたような瞳さえ細やかにこちらを見ているように思われた。

ラ・フエロの「美しき女庭師の聖母」アングルの「ブランド・オダリスク」ルーベンスの「マリード・メディチのマルセールの上陸」等いくら時間があってもたりなかった。二階のおどり場にあった「サモトラケのニケ」は勝利の翼を広げて今にも飛び立つ程の雄そうな姿であり、まるで宝石の中の宝石、傑作ばかりで呼吸困難を起こしそうだった。
あとがき
生涯、忘れることのできない 新婚旅行の思い出です。主人は私にとって 良き指導者であり、はげましの相手であり、悲しみを分かちあう有難い伴侶でもあります。いや、正直「心の太陽」といっても過言ではありません。

格安・新婚旅行

上田哲次さん(62才、福岡県在住)

三十年前の四月下旬、結婚した私。妹の紹介が縁だった。最初に出逢ったのが一月十五日。

話がトンゝ拍子に進み、双方の両親どころか張本人である我々二人さえ驚いてしまった程だ。式場も、運良く一ヶ所だけ、希望の日が空いており、早速予約した。招待状も、私の手描き原稿を元に印刷し、好評だった。

披露宴も終えた翌朝、我々は新婚旅行へ旅立った。東京経由の北海道旅行である。東京には、学生時代の友人も多いので、寄ってみたかったし、北海道は、我々二人共、初めてだった上、花々が美しい季節だったからだ。

その上、先輩の協力で、格安で行けたからである。到着すると、まずレンタカーを借りた。

走れどもゝあまり変わらない壮大な風景。どこまでも澄んだ蒼い空・・・。私は深呼吸を何回しただろうか・・・。北海道を廻った我々は、帰路も東京で一泊。往路とは違うメンバーを、悪友があつめてくれていた・・・・・・。

あれから既に三十年。真珠婚と言うらしいが、まだ買えないでいる・・・。

天然スケート場での猛特訓

阿部満さん(79才、横浜市在住)

「ね、ね、新婚旅行は海外旅行よりも、国内でのスケートにしようよ。ほら、長野県の浅間温泉の上にある美鈴湖がいいよ」

「そうね。私もスケート大賛成だわ。ぜひぜひ」

彼女の輝くヒトミの返事で、旅行の日程と場所、予約など、あっという間に決まった。付き合って1年たらずだったが、それぞれ苦労してきたこともあり、価値観も一緒なら互いに強く惹かれあうのも当然だった。話は順調に進んでいった。人生の新しいスタートを切る上で、氷上を仲良く滑る情景を心に描くのは、絶好のグラウンドであった。

二月上旬、浅間温泉に一泊した私たちは、翌朝快晴に恵まれ、美鈴湖へと向かった。今でこそ国際スケート場として整備された素晴らしい美鈴湖だが、当時は天然スケートリンクで、湖面が全くの緑色をしており、信じられないくらいの完全なリンクであった。彼女は私よりも格段に滑るのがうまく、スイスイと滑っていく。「ああ、もう少しうまくなれたならなあ。コーナーを回る時が難しくて」などと嘆いていたら、私達を見ていた一人の中年男性が声をかけてきた。

「そんな滑り方ではだめです。左足で蹴ったら、その勢いを右足にのせて滑るんです」丁寧に教えてくれるのであった。嬉しかった。見ず知らずの人が、こんなにも親切にしてくれるなんてーーー。聞けば、このおじさん、名古屋のSさんという人で、女性の友人とここで待ち合わせしているのだとか。流行の”不倫旅行”といったところだろうか。私たちのあまりに下手クソな滑り方を見て、業を煮やしたのかもしれない。その日は一日、Sさんは模範演技を見せてくれたりと、私たちはまさに”生徒”であった。

あれから50年、半世紀を過ぎた今、若かった私も年を重ね、来年は傘寿を迎える。スケートの実技を指導してくれたSさんもつい先年亡くなり、最愛の妻も昨年、病のため天国へと旅立っていった。すべては夢のように過ぎ去っていくが、新婚旅行のときのあの天然スケート場でのSさんの新烈な特訓だけは、いつまでも心に残っている。

44年前の新婚旅行

椿原庸夫さん(69歳、札幌市)

「大人1枚、学割1枚」―私たちが新婚旅行に出かけるため、上野駅で切符を買ったときの言葉だ。実は、私は大学6年生にして社会人1年生だった。というのは、前年に入社が決まったのだが、1科目だけ単位を落として留年するハメに。しかし、会社は、1週間に1回、大学に通うことを許してくれたというわけだ。

確か落語で聞いたような気がするが、映画館のチケット売り場で「学生1枚」と言ったら、後ろに並んでいた人が「農業1枚」と言ったという笑い話があるが、そんな感じだ。私25歳、結婚相手の彼女は27歳の社会人であった。

結婚式は3月30日の仏滅。中野にある有名な結婚式場・Nで、ここには高校時代の仲よしだったO君がカメラマンをしていて、かねてから、「お前の結婚式の写真は俺が撮る」と言ってくれていた。この日なら式場も空いているしと、格安でやってくれた。そして、ぎりぎり学割が効くうちに新婚旅行に行った。

行き先は信州。千曲川、白樺湖、諏訪湖、蓼科高原、横谷温泉峡などへ。

思い出すことの一つは、白樺湖側のホテルに泊まったときのこと。オフシーズンで、ほとんど宿泊客がいなかったにもかかわらず、夜遅い時間まで、われわれの部屋の隣がいやに騒がしいのだ。男性ばかり3~4人だったようだが、フロントに連絡すると、平謝りの上、部屋を変えてくれた。しかも、グレードアップして、立派な部屋に。あれは、新婚旅行のカップルだと分かっていて、わざと隣の部屋にしたのではないか。

もう一つ、横谷温泉峡のホテルでのこと。夕食に出た「セロリの粕漬け」が大変美味しかったので褒めたところ、翌朝の出発時に大女将が、ビニールにいっぱい新婚旅行のお土産にと渡してくれた。

帰りは碓氷峠を越える列車に乗ったが、横川駅で「峠の釜めし」を買い、もらったセロリの粕漬けと一緒に食べた。向かいに座った人が「いい匂い、美味しそうね」と、ニッコリ。温かい心遣いもあり、実に美味しかったこと! 44年前の忘れられない新婚旅行の思い出だ。

手荒い見送り

鳩平和さん(60歳、兵庫県)

新婚旅行は、広島の原爆ドームと平和資料館を見学したかったので、二泊三日と車イスの私の身体に無理のない程度の範囲内で、?高松→?松山→?広島のコースを予約していました。

新幹線のホームは階段なので、結婚式実行委員会のメンバーと早めにホームに上がることにしました。その日は、『姫路労音』の会員の結婚式もあったらしくて、私と反対の上りホームに行く時にすれ違いました。すると、『姫路労音』の役員の一人が声を掛けてきてくれました。

「オメデトウ。浜野さん達は何時に出発?」私がもう少し後だと話すと、

「それじゃあ、見送りだけでもさせてもらいます」と、言ってくれましたので、

「ありがとうございます、光栄です」と、微笑んで応対しました。

最初、見送ってくれる人達は、まばらでした。当日、某テレビ局が取材に来ていましたが撮影は早々に切り上げた。この様子の放映時間も告げて帰られましたので、

「それを見る為に早く帰った方々もあるのだろう」

と残念でしたが、暫らくすると次第に増えてきて式に出席した人は全員集まってきてくれました。

そこに、見送りを終えられた『姫路労音』の一行がギター等を持って集まってきてくれました。総勢二百名以上にもなりました。あっという間に、ホームは人盛りになっていました。

若者が多かったので新幹線が滑り出す直前、ホームは自然と盛り上がってしまって騒乱的状態。その為に新幹線の出発が一分余遅れたのです。

咎められる事はありませんが、その後、姫路駅利用の際に十年近く介助にきてくれた助役達に冷やかされたものです。それもいい思い出となりました。




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